2009年11月28日土曜日
2009年11月23日月曜日
2009年11月16日月曜日
Art Blakey
アート・ブレイキー(Art Blakey, 1919年10月11日 - 1990年10月16日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ出身のジャズドラマー。
初期
10代後半からバンドで活動しニューヨークへ進出。一説には当初はピアニストであったが、ある時からピアノを断念しドラマーに転向した。ピアニストからの転向を伝えるエピソードの中に次のようなものがある。ある夜、アート・ブレイキーが演奏するクラブに、クラブのボス(マフィアとの説も)がピアニストを連れてきて弾かせたところ、アートよりも優れた演奏をしたため、ボスはアートに「おまえはタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというものだ。また、ドラムの腕も当初はたいしたことはなく、バンド仲間からはバカにされていたが、盟友であるトランペッターのディジー・ガレスピーがアドバイスをし、みるみるその腕を上げたという話もある。
本格的な始動
1944年からビリー・エクスタインの楽団へ入り、1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。クリフォード・ブラウンやルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブのバードランドに出演して人気を博した。
1956年にシルヴァーが脱退した後も、ブレイキーは晩年までメッセンジャーズのリーダーとして活躍し、日本でもファンキー・ブームを起こした一人である。この頃の代表曲は、モーニン、ブルース・マーチである。ジャズ・メッセンジャーズは基本的に2管または3管のフロント+3リズムのコンボ形式のバンドである。
ドラマーとしての一番の特徴はメリハリのあるバッキング(ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラロール」までの振幅)にあり、ことにシンバルレガートの滑らかで美しい音色は特筆される。また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されるべきだろう。ただし晩年の録音では、腕力や感性の衰えがかなり目立ち、リズムキープもおぼつかないようになっていった。
日本との関係
1961年の初来日以降何度も日本で演奏をおこない親日家としても知られる。その証拠として、彼の演奏した曲の中に"Ugetsu(雨月)" On The Ginza(オン・ザ・ギンザ)"などといった日本をテーマにした曲も存在する。メッセンジャーズにも'70年代以降鈴木良雄、鈴木勲等の日本人がレギュラーまたは客演で加わっているほか、かつての妻の一人も日本人であったという。
「オレは黒人だぞ。一緒に写真に収まってもいいのか?」初来日時に、ファンから記念写真をせがまれた彼の率直なリアクションである。また東京での公演がTBS系列でラジオ中継されると聞かされて、彼を始めジャズメッセンジャーズのメンバーは大いに奮起し、この初来日時の感激が親日家アート・ブレイキーを生んだと伝えられている。帰国を前に、彼は「私は今まで世界を旅してきたが、日本ほど私の心に強い印象を残してくれた国はない。それは演奏を聴く態度は勿論、何よりも嬉しいのは、アフリカを除いて、世界中で日本だけが我々を人間として歓迎してくれたことだ。人間として! ヒューマンビーイングとして!」[1]とも述べている。
出身者
また多くの新人を発掘するとともに多くの著名なミュージシャンが巣立った。50年代後半からはリー・モーガン、ボビー・ティモンズ、ウェイン・ショーター等が、60年代にはフレディ・ハバード、キース・ジャレット、チャック・マンジョーネ、シダー・ウォルトン、レジー・ワークマン等がメッセンジャーズ在籍をきっかけにスターになった。80年代に流行した新伝承派と呼ばれる若手プレイヤーを中心とした、モダン・ジャズムーヴメントで活躍したプレイヤーの多くがメッセンジャーズの出身である。第一線で活躍しているウィントン・マルサリス、ブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、マルグリュー・ミラー、ジェイムス・ウィリアムス、ロニー・プラキシコ、ケニー・ギャレットなどがメッセンジャーズの出身である。
アートの長女エブリン・ブレイキー(2007年没)も、メッセンジャーズでの活動を経て、プロの歌手として成功を収めた。
彼の功績は多大で現在のジャズ界に多大な影響を与えた事は周知の事であるが、その功績に反して、晩年の聴力・体力衰弱に伴うリズムキープの衰えなどから、評価は賛否相半ばした。一方日本へは、亡くなる間際まで来日を繰り返し、特に夏のフェスティバルの顔的存在ではあった。
代表作
"Moanin'" (モーニン)/アート・ブレイキー・アンド・ジャズメッセンジャーズ
"A Night in Tunisia" (チュニジアの夜)/アート・ブレイキー・アンド・ジャズメッセンジャーズ
"A Night at Birdland Vol.1" (バードランドの夜 Vol.1)
"A Night at Birdland Vol.2" (バードランドの夜 Vol.2)
"The Freedom Rider"(ザ・フリーダムライダー)
"The Big Beat" (ザ・ビッグ・ビート)
2009年11月6日金曜日
2009年11月4日水曜日
2009年11月1日日曜日
2009年10月31日土曜日
2009年10月29日木曜日
2009年10月27日火曜日
ラフマニノフ
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者
管弦楽作品
交響曲ニ短調 (1891)
単一楽章。第1楽章だけであとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
交響曲第1番ニ短調 (op.13, 1895)
交響曲第2番ホ短調 (op.27, 1906-08)
第3楽章の甘美なメロディーはとても有名。
交響曲第3番イ短調 (op.44, 1941)
遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
幻想曲『岩』 (op.7, 1893)
ボヘミア風奇想曲(ジプシーの主題による綺想曲) (op.12, 1894)
交響詩『死の島』 (op.29, 1909)
アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」のモノクロの複製画に着想を得て作曲した作品。何度も改訂されている。
交響的舞曲 (op.45, 1941)
協奏曲
ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 (op.1, 1890-91/1917)
ピアノ協奏曲第2番ハ短調 (op.18, 1900-01)
その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでも最もポピュラーな作品の1つ。映画『逢びき』、『旅愁』、『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
ピアノ協奏曲第3番ニ短調 (op.30, 1909)
高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。
ピアノ協奏曲第4番ト短調 (op.40, 1927/41)
パガニーニの主題による狂詩曲 (op.43, 1934)
実体は変奏曲の形態を取ったピアノ協奏曲。第18変奏はラフマニノフならではの叙情性に溢れ、特に有名。
室内楽曲
悲しみの三重奏曲第1番(ピアノ三重奏曲)ト短調 (1892)(単一楽章の曲)
悲しみの三重奏曲第2番(ピアノ三重奏曲)ニ短調 (op.9,1893/1907,1917)
チェロ・ソナタト短調 (op.19, 1901)
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番ニ短調 (op.28, 1907)
ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 (op.36, 1913, rev 1931)
楽興の時 (op.16, 1896/1940)
前奏曲嬰ハ短調 作品3 第2番 (1892)
1893年に出版されたピアノ曲集「幻想的ピアノ小曲集」作品3の第2曲。初演以来熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在となった作品。
前奏曲集 (op.23, 1903) (op.32, 1910) (1917)
前奏曲ト短調op.23-5
練習曲集『音の絵』第1集(op.33, 1911)・第2集(op.39,1916-17)
レスピーギが5曲を抜粋して管弦楽に編曲している。
組曲第1番「幻想的絵画」 (op.5,1893)
組曲第2番 (op.17,1901)
組曲第1番・第2番はともに2台のピアノのための作品
ショパンの主題による変奏曲
ショパンの前奏曲ハ短調作品28の20のコラール風の主題による変奏曲。
声楽曲
ヴォカリーズ (op.34-14, 1915)(「14の歌曲」op.34の終曲)
ヴォカリーズとは、歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
合唱交響曲『鐘』 (op.35, 1913)
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。エドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによるロシア語訳に基づく。
聖金口イオアン聖体礼儀 (op.31, 1910)
徹夜禱 (op.37, 1914-15)
以上2曲は正教会のための奉神礼音楽
歌劇
『アレコ』 (1892)
『けちな騎士』 (op.24,1903)
『フランチェスカ・ダ・リミニ』 (op.25,1904)
2009年10月24日土曜日
Chopin Nocturne 20
フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Szopen, 1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説あり) - 1849年10月17日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
1810年 - 0歳:ポーランドの国土ほぼ中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に、フランス人の父ニコラ(ポーランド名ミコワイ)、ポーランド人(貴族の末裔)の母ユスティナの間に生まれる
1816年 - 6歳: ヴォイチェフ・ジヴニーの指導を受ける。
1817年 - 7歳:ジウニーよりピアノを習いはじめる。現存する初めての作品『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版される。
1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネル(ワルシャワ音楽院長)より対位法、和声学を学び始める。
1826年 - 16歳:ワルシャワ音楽院に入学。
1828年 - ベルリンに行き、2週間ほど滞在してウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴く。
1829年 - コンスタンツィア・グワトコフスカ(声楽)への初恋(『ピアノ協奏曲第2番』第2楽章に結実)。 ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンで演奏会を開く。
1830年 - ワルシャワを去りウィーンに向かう。 告別演奏会で『ピアノ協奏曲第1番』を披露、コンスタンツィアも歌を披露。この時、ショパンの友人がポーランドの土が入った杯を渡したという伝説があるが、これはショパンの伝記を書いた著者の作り話である。ショパンのウィーン到着後まもなくワルシャワ蜂起が起こると、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、十分な演奏の機会も得られなかったため、パリ行きを決断する。
1831年 - ウィーンを去りパリへ向かう。 途上、ワルシャワ蜂起失敗の報に接し『革命のエチュード』を作曲したとの伝説。 パリ到着、終生の友となるデルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
1832年 - 2月26日 パリで初の演奏会を開く。
1835年 - カールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)で両親と最後の再会。 かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアとドレスデンにて再会、ワルツを献呈(後に『別れのワルツ』と呼ばれる)。
1836年 - 26歳:マリアに求婚。 マリ・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンでジョルジュ・サンドを紹介される。
1837年 - ヴォジンスキ家から婚約が破棄される(マリアからもらったバラの花と手紙の束は彼の死後「わが哀しみ」と書かれた紙包みの中から見つかった)。
1838年 - サンドとの交際が始まる。 マジョルカ島に半年間結核療養で滞在するも悪化。
1839年 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる(1847年まで)。
1844年 - 冬 インフルエンザにかかる。
1847年 - 36歳:ジョルジュ・サンドと別れる。
1848年 - 2月26日 パリでの最後の演奏会。 ロンドンに滞在、ヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博す。
1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。 10月17日パリで永眠。葬儀はパリのマドレーヌ寺院にておこなわれ、レクイエムが演奏された。これは、自らの葬儀に際してはモーツァルトのレクイエムの演奏をしてほしいとの生前の希望によるものであった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される(4つ左隣はルイジ・ケルビーニの墓)。しかし、彼の意向により心臓だけは、姉によってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められている。
2009年10月22日木曜日
2009年10月21日水曜日
2009年10月20日火曜日
SOLEADO
『哀しみのソレアード』は、イタリアの音楽グループ「ダニエル・センタクルツ・アンサンブルDanielSentacruz Ensemble)」によるインストルメンタル。
原題は「ソレアード(SOLEADO)」。「ソレアード」とはスペイン語で「日だまり、日当たりの良い場所」という意味。
今日に至るまで、世界中のアーティスト達により様々な歌詞がつけられて歌われている。
中でもアメリカの歌手ジョニーマティス(John Royce Mathis)によるクリスマスソング「When A Child Is Born」は特に有名。
日本では、ポールモーリア楽団による演奏でよく知られている。
元々は14世紀イタリアの曲?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、オリジナルのメロディーは主に14世紀後半にイタリアで活躍した作曲家アントニオ・ザカーラ・ダ・テーラモ(Antonio Zaccara da Teramo/Zacara/Zacar/Zachara)により作曲されたもの。
2009年10月19日月曜日
2009年10月18日日曜日
Piano Concerto No. 21
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(ドイツ語:Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 - 1791年12月5日)は有名なクラシック音楽の作曲家の一人である。ハイドン、ベートーヴェンらとともに古典派と呼ばれる。
代表的な作品
オペラ:後宮からの誘拐、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛
宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム
交響曲:第25番、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』
セレナード:アイネ・クライネ・ナハトムジーク
ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番
管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲
弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、弦楽五重奏曲:第3番、第4番
その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲
ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』
2009年10月17日土曜日
ムーンライト・セレナーデ
ムーンライト・セレナーデ(Moonlight Serenade)は
ジャズのスタンダード・ナンバーの1つ。1939年にトロンボーン奏者のグレン・ミラーにより作曲されたスウィング・ジャズの代表曲の1つであり、グレン・ミラー楽団のバンドテーマとなっている。
オリジナル・アレンジはクラリネットをフィーチャーしたビッグバンドのスローナンバーであるが、後に様々なアレンジにより多くのバンドによりカバーされている。映画『スウィングガールズ』(2004年公開)の演奏シーンにも登場した。
後にミッチェル・パリッシュにより歌詞が書き加えられ、歌としてもとりあげられる事がある。シカゴ(シングルス (テレビドラマ)(1997年)の主題歌として採用)やカーリー・サイモン(2005年のアルバム「Moonlight Serenade」に収録)などがカヴァーしたことでも有名。1999年小野リサがボサノヴァのアレンジで歌ったものは、三菱・パジェロイオのCM曲としても取り上げられた。
2009年10月16日金曜日
Sing Sing Sing
ベニー・グッドマン(Benny Goodman, 本名:ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマン(Benjamin David Goodman)、1909年5月30日 - 1986年6月13日)は、クラリネット奏者、バンドリーダー。スウィング・ジャズの代表的存在として知られる。
略歴
縫製職人の家の九男として、シカゴに生まれる。貧しいロシア系ユダヤ移民の家庭に育ち、教育は「ハル・ハウス」という福祉施設で受けている。無料で音楽が学べる地元の音楽教室にて、10歳の頃からシカゴ音楽大学の元教師・フランツシェップ氏の下でクラリネットを習得。11歳のときにデビューする。
1923年にコルネット奏者のビックス・バイダーベック(Bix Beiderbecke)と共演し、1925年にベン・ポラック楽団(the Ben Pollack Orchestra)に参加。1928年には本拠地をニューヨークへ移し、翌1929年には楽団から離れてソロ活動を始める。
1932年には自ら楽団を結成し、NBCラジオに定期的に出演。1935年のロサンゼルスの有名なダンスホールであるパロマーボールルーム(Palomar Ballroom)での大成功をきっかけに全米にわたる人気を獲得し、1938年にはカーネギー・ホールで最初のジャズコンサートを行うまでに至りスウィングの王様(King of Swing)の名声をほしいままにする。
またグッドマンは人種差別が激しかった当時、テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトンをはじめとする黒人ミュージシャンを積極的に雇った最初の人物として賞賛されることも多い。
ビッグ・バンドのベニー・グッドマン楽団を率いた他、トリオ、カルテット、セクステットといった小編成でも演奏活動を行った。
さらにはクラシック音楽も手がけ、モーツァルトの『クラリネット協奏曲』などのレコードを出している。また、当時の現代作曲家バルトークとも親交があり、『ヴァイオリンとクラリネットとピアノのためのコントラスツ』の献呈を受けており、作曲者及び同時に献呈を受けたヴァイオリニストのシゲティとの共演録音が残されている。同時代の作曲家では他にコープランドがクラリネット協奏曲を作曲している。
1955年には前半生を描いた映画『ベニイ・グッドマン物語』が公開された。主演は、グッドマンのそっくりさんとして知られたテレビ司会者スティーヴ・アレン。ジーン・クルーパ、ハリー・ジェイムス、ライオネル・ハンプトン等有名ミュージシャンたちが共演。サウンドトラックはベニー・グッドマン楽団が制作してデッカ・レコードから発売されたが、グッドマンはこの時の演奏に不満を持ち、キャピトル・レコードから全く同じ選曲のアルバム『ベニー・グッドマン物語』を発表。
1958年、1964年、1980年に来日公演を行っている。
代表曲に、力強いドラムから始まる『シング・シング・シング』(Sing Sing Sing )が挙げられる。
2009年10月15日木曜日
ふるさと(英語版)
故郷 (ふるさと)文部省唱歌
1914年(大正3年)の尋常小学唱歌の第六学年用で発表された。当時は尋常小学唱歌の性格上、作詞作曲者が明かされていなかったが、作詞者は高野辰之、作曲者は岡野貞一であるとされている。ただし岡野作曲説は学問的には疑わしい。
同じ作詞・作曲者の手による『朧月夜』、『春の小川』などと共に、文部省唱歌を代表する曲としていまでも世代を超えて歌い継がれている。
子供の頃の野山の風景を遠い地から懐かしむという内容で、生まれ故郷から離れて学問や勤労に励む人の心情を歌っている。当該歌詞にあっては、「かの山」は高野の生家のあった中野市(旧豊田村)永江地区の「大持山」、「かの川」は「斑川」であるとする説が一般的である。 ただし、歌の中には場所や人を特定する歌詞が出てくることはなく、この歌を通じて、多くの日本人が、それぞれの故郷の光景や家族に思いをめぐらせ、歌の持つ情感に共感できることこそが、場所と時代を超えて歌われ続けているゆえんであろう。
オリジナル歌詞
兎追ひし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)
如何(いか)にいます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出(い)づる 故郷
志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
2009年10月14日水曜日
太陽がいっぱい
『太陽がいっぱい』(仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。俳優アラン・ドロンの主演作品の1つでパトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作にしたサスペンスタッチの作品。
映画を見たことがない人にも、ニーノ・ロータ作曲の哀切漂うメインテーマ曲は広く知られている。
1999年、マット・デイモン主演で、ハイスミスの同じ作品を基にした映画『リプリー』が公開された。この2つの作品は原作が同じというだけで、『リプリー』は『太陽がいっぱい』のリメイクではない。
ストーリー
悪友フィリップ(モーリス・ロネ)を、彼の父親の頼みで連れ戻しに来た貧乏な若者トム(アラン・ドロン)。しかし放蕩息子であるフィリップは父の元へ戻る気はなく、親の金で遊び回っていた。トムはフィリップの金目当てに彼と行動を共にするが、トムやフィリップの恋人マルジェ(マリー・ラフォレ)に対してフィリップが時折見せる傍若無人な態度に怒り、フィリップを殺害してしまう。死体を海に捨てた後、トムはフィリップになりすまして彼の財産を手に入れようと画策し、計画は成功したかに見えたのだが…。
2009年10月12日月曜日
枯葉 ジャズ版
『枯葉』(かれは、フランス語原題:Les Feuilles mortes )は、1945年にジョゼフ・コズマ(Joseph Kosma)が作曲し、後にジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)が作詞したフランスの歌曲(シャンソン)である。
ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、その歌詞は遠く過ぎ去って還ることのない恋愛への追想を、季節を背景とした比喩を多用して語るものである。第二次世界大戦後のシャンソンの中でももっとも有名な曲の一つであるだけでなく、世界的にも20世紀を代表するポピュラー音楽の名歌に数えられる。フランス語の原詞のほかにも、各国語の歌詞を与えられて広く歌われ、また演奏されている。
オリジナル「Les Feuilles mortes」
1945年、ローラン・プティ・バレエ団のステージ「Rendez-vous」の伴奏音楽の一つとしてコズマが作曲したメロディーが原型である。このステージからモチーフを得て翌1946年に製作されたマルセル・カルネ監督の映画「夜の門」(Les Portes de la Nuit )で挿入歌として用いられることになり、映画の脚本にも携わったプレヴェールが新たに詞を付けた。なお、プレヴェールとコズマは、戦時中に製作されたカルネ監督の名作映画「天井桟敷の人々」にもそれぞれ脚本と音楽で携わっていた。歌自体は1947年に出版登録されている。
映画「夜の門」は戦後の世相を背景とした群像劇で、映画に出演した新人歌手イヴ・モンタンによって劇中で歌われたのが歌曲としての「枯葉」のオリジナルとなったが、このバージョンは映画共々ヒットしなかった。しかし、これに続いて当時人気があった知性派の女性シャンソン歌手ジュリエット・グレコが歌ったことで「枯葉」は世に認知されるようになり、1940年代末から1950年代にかけ広まって、シャンソン界のスタンダード曲となった。
女性歌手コラ・ヴォーケールは1948年にこの曲を取り上げて歌うようになり、何度か録音も行っている。彼女の抑制された端整な歌唱によるヴァージョンはこの曲のもっとも優れた解釈の一つであり、アメリカの大学においてフランス語の授業に「フランス語の美しい発音のサンプル」として使われたというエピソードもある。他にも戦後に活躍した多くのフランス人歌手たちによって歌われており、反骨のアーティストであるセルジュ・ゲンスブールもこの歌を歌っている。
2009年10月11日日曜日
月光 ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven、1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。
楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成とされている。
生涯
1770年12月17日ごろ、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの次男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手であったが無類の酒好きであったため、1773年に祖父が亡くなると生活が苦しくなった。1774年頃よりベートーヴェンは父から苛烈を極める音楽の教育を受けるようになり、1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。
1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れたといわれるが、母の病状悪化の報を受けてボンに戻った。母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる日々を過ごした。
1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。
20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという絶望感から1802年には自殺も考えたが、『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる文書を書くことによって、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。
1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(作家ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期となる。
40代に入ると、体調の悪化、恋愛事件・甥カールをめぐる養育権争い等もあり一時作曲が停滞したが、それらを経て作られた『交響曲第9番』や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は未曾有の境地の高さを示した。
1826年12月に肺炎を患ったことから病状が急激に悪化、1827年3月26日、56歳で生涯を終えた。その葬儀には3万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。