2009年10月11日日曜日

月光 ベートーヴェン


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンLudwig van Beethoven、1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。ボン生まれ。

楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされる。その作品は古典派音楽の集大成とされている。
生涯

1770年12月17日ごろ、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの次男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手であったが無類の酒好きであったため、1773年に祖父が亡くなると生活が苦しくなった。1774年頃よりベートーヴェンは父から苛烈を極める音楽の教育を受けるようになり、1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに弟子入りを申し入れたといわれるが、母の病状悪化の報を受けてボンに戻った。母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり)が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという絶望感から1802年には自殺も考えたが、『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる文書を書くことによって、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(作家ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期となる。

40代に入ると、体調の悪化、恋愛事件・甥カールをめぐる養育権争い等もあり一時作曲が停滞したが、それらを経て作られた『交響曲第9番』や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタ弦楽四重奏曲等の作品群は未曾有の境地の高さを示した。

1826年12月に肺炎を患ったことから病状が急激に悪化、1827年3月26日、56歳で生涯を終えた。その葬儀には3万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。

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