2009年10月24日土曜日

Chopin Nocturne 20


フレデリックフランソワショパンFrédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Szopen, 1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説あり) - 1849年10月17日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
1810年 - 0歳:ポーランドの国土ほぼ中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に、フランス人の父ニコラ(ポーランド名ミコワイ)、ポーランド人(貴族の末裔)の母ユスティナの間に生まれる
1816年 - 6歳: ヴォイチェフ・ジヴニーの指導を受ける。

1817年 - 7歳:ジウニーよりピアノを習いはじめる。現存する初めての作品『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版される。
1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネルワルシャワ音楽院長)より対位法和声学を学び始める。
1826年 - 16歳:ワルシャワ音楽院に入学。
1828年 - ベルリンに行き、2週間ほど滞在してウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴く。
1829年 - コンスタンツィア・グワトコフスカ(声楽)への初恋(『ピアノ協奏曲第2番』第2楽章に結実)。 ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンで演奏会を開く。
1830年 - ワルシャワを去りウィーンに向かう。 告別演奏会で『ピアノ協奏曲第1番』を披露、コンスタンツィアも歌を披露。この時、ショパンの友人がポーランドの土が入った杯を渡したという伝説があるが、これはショパンの伝記を書いた著者の作り話である。ショパンのウィーン到着後まもなくワルシャワ蜂起が起こると、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、十分な演奏の機会も得られなかったため、パリ行きを決断する。
1831年 - ウィーンを去りパリへ向かう。 途上、ワルシャワ蜂起失敗の報に接し『革命のエチュード』を作曲したとの伝説。 パリ到着、終生の友となるデルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
1832年 - 2月26日 パリで初の演奏会を開く。
1835年 - カールスバートカルロヴィ・ヴァリ)で両親と最後の再会。 かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアドレスデンにて再会、ワルツを献呈(後に『別れのワルツ』と呼ばれる)。
1836年 - 26歳:マリアに求婚。 マリ・ダグー伯爵夫人リストの愛人)のサロンジョルジュ・サンドを紹介される。
1837年 - ヴォジンスキ家から婚約が破棄される(マリアからもらったバラの花と手紙の束は彼の死後「わが哀しみ」と書かれた紙包みの中から見つかった)。
1838年 - サンドとの交際が始まる。 マジョルカ島に半年間結核療養で滞在するも悪化。
1839年 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる(1847年まで)。
1844年 - 冬 インフルエンザにかかる。
1847年 - 36歳:ジョルジュ・サンドと別れる。
1848年 - 2月26日 パリでの最後の演奏会。 ロンドンに滞在、ヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博す。
1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。 10月17日パリで永眠。葬儀はパリのマドレーヌ寺院にておこなわれ、レクイエムが演奏された。これは、自らの葬儀に際してはモーツァルトのレクイエムの演奏をしてほしいとの生前の希望によるものであった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される(4つ左隣はルイジ・ケルビーニの墓)。しかし、彼の意向により心臓だけは、姉によってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められている。

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