ふたりは、こんな人です=ライオネル・リッチー ダイアナ・ロス
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ラフマニノフ
セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者
管弦楽作品
交響曲ニ短調 (1891)
単一楽章。第1楽章だけであとは未完。「ユース・シンフォニー」と通称される。
交響曲第1番ニ短調 (op.13, 1895)
交響曲第2番ホ短調 (op.27, 1906-08)
第3楽章の甘美なメロディーはとても有名。
交響曲第3番イ短調 (op.44, 1941)
遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚である。自作自演による録音も存在する。
幻想曲『岩』 (op.7, 1893)
ボヘミア風奇想曲(ジプシーの主題による綺想曲) (op.12, 1894)
交響詩『死の島』 (op.29, 1909)
アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」のモノクロの複製画に着想を得て作曲した作品。何度も改訂されている。
交響的舞曲 (op.45, 1941)
協奏曲
ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調 (op.1, 1890-91/1917)
ピアノ協奏曲第2番ハ短調 (op.18, 1900-01)
その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでも最もポピュラーな作品の1つ。映画『逢びき』、『旅愁』、『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。
ピアノ協奏曲第3番ニ短調 (op.30, 1909)
高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲。
ピアノ協奏曲第4番ト短調 (op.40, 1927/41)
パガニーニの主題による狂詩曲 (op.43, 1934)
実体は変奏曲の形態を取ったピアノ協奏曲。第18変奏はラフマニノフならではの叙情性に溢れ、特に有名。
室内楽曲
悲しみの三重奏曲第1番(ピアノ三重奏曲)ト短調 (1892)(単一楽章の曲)
悲しみの三重奏曲第2番(ピアノ三重奏曲)ニ短調 (op.9,1893/1907,1917)
チェロ・ソナタト短調 (op.19, 1901)
ピアノ曲
ピアノ・ソナタ第1番ニ短調 (op.28, 1907)
ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 (op.36, 1913, rev 1931)
楽興の時 (op.16, 1896/1940)
前奏曲嬰ハ短調 作品3 第2番 (1892)
1893年に出版されたピアノ曲集「幻想的ピアノ小曲集」作品3の第2曲。初演以来熱狂的な人気を獲得し、ラフマニノフの代名詞的な存在となった作品。
前奏曲集 (op.23, 1903) (op.32, 1910) (1917)
前奏曲ト短調op.23-5
練習曲集『音の絵』第1集(op.33, 1911)・第2集(op.39,1916-17)
レスピーギが5曲を抜粋して管弦楽に編曲している。
組曲第1番「幻想的絵画」 (op.5,1893)
組曲第2番 (op.17,1901)
組曲第1番・第2番はともに2台のピアノのための作品
ショパンの主題による変奏曲
ショパンの前奏曲ハ短調作品28の20のコラール風の主題による変奏曲。
声楽曲
ヴォカリーズ (op.34-14, 1915)(「14の歌曲」op.34の終曲)
ヴォカリーズとは、歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
合唱交響曲『鐘』 (op.35, 1913)
3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。エドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによるロシア語訳に基づく。
聖金口イオアン聖体礼儀 (op.31, 1910)
徹夜禱 (op.37, 1914-15)
以上2曲は正教会のための奉神礼音楽
歌劇
『アレコ』 (1892)
『けちな騎士』 (op.24,1903)
『フランチェスカ・ダ・リミニ』 (op.25,1904)
2009年10月24日土曜日
Chopin Nocturne 20
フレデリック・フランソワ・ショパン (Frédéric François Chopin, ポーランド名フリデリク・フランツィシェク・ショペン Fryderyk Franciszek Szopen, 1810年3月1日(2月22日(出生証明の日付)、1809年3月1日説あり) - 1849年10月17日)はポーランド出身の前期ロマン派音楽を代表する作曲家である。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが最も多い作曲家の一人でもある。
1810年 - 0歳:ポーランドの国土ほぼ中央に位置するジェラゾヴァ・ヴォラ(Żelazowa Wola)に、フランス人の父ニコラ(ポーランド名ミコワイ)、ポーランド人(貴族の末裔)の母ユスティナの間に生まれる
1816年 - 6歳: ヴォイチェフ・ジヴニーの指導を受ける。
1817年 - 7歳:ジウニーよりピアノを習いはじめる。現存する初めての作品『ポロネーズ ト短調』を作曲、出版される。
1818年 - 8歳:ワルシャワではじめて公開演奏。
1823年 - 12歳:ユゼフ・エルスネル(ワルシャワ音楽院長)より対位法、和声学を学び始める。
1826年 - 16歳:ワルシャワ音楽院に入学。
1828年 - ベルリンに行き、2週間ほど滞在してウェーバーの歌劇『魔弾の射手』、チマローザの歌劇『秘密の結婚』、ヘンデルの『聖セシリア』を聴く。
1829年 - コンスタンツィア・グワトコフスカ(声楽)への初恋(『ピアノ協奏曲第2番』第2楽章に結実)。 ワルシャワ音楽院を首席で卒業、ウィーンで演奏会を開く。
1830年 - ワルシャワを去りウィーンに向かう。 告別演奏会で『ピアノ協奏曲第1番』を披露、コンスタンツィアも歌を披露。この時、ショパンの友人がポーランドの土が入った杯を渡したという伝説があるが、これはショパンの伝記を書いた著者の作り話である。ショパンのウィーン到着後まもなくワルシャワ蜂起が起こると、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、十分な演奏の機会も得られなかったため、パリ行きを決断する。
1831年 - ウィーンを去りパリへ向かう。 途上、ワルシャワ蜂起失敗の報に接し『革命のエチュード』を作曲したとの伝説。 パリ到着、終生の友となるデルフィヌ(デルフィナ)・ポトツカ夫人と再会。
1832年 - 2月26日 パリで初の演奏会を開く。
1835年 - カールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)で両親と最後の再会。 かつて親交のあったポーランド人貴族ヴォジンスキ伯爵家のマリアとドレスデンにて再会、ワルツを献呈(後に『別れのワルツ』と呼ばれる)。
1836年 - 26歳:マリアに求婚。 マリ・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンでジョルジュ・サンドを紹介される。
1837年 - ヴォジンスキ家から婚約が破棄される(マリアからもらったバラの花と手紙の束は彼の死後「わが哀しみ」と書かれた紙包みの中から見つかった)。
1838年 - サンドとの交際が始まる。 マジョルカ島に半年間結核療養で滞在するも悪化。
1839年 - 冬はパリ、夏はノアンのサンドの別荘で暮らす生活が始まる(1847年まで)。
1844年 - 冬 インフルエンザにかかる。
1847年 - 36歳:ジョルジュ・サンドと別れる。
1848年 - 2月26日 パリでの最後の演奏会。 ロンドンに滞在、ヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博す。
1849年 - 39歳:姉、ルトヴィカと最後の再会。 ポトツカ夫人、病床を見舞い歌う。 10月17日パリで永眠。葬儀はパリのマドレーヌ寺院にておこなわれ、レクイエムが演奏された。これは、自らの葬儀に際してはモーツァルトのレクイエムの演奏をしてほしいとの生前の希望によるものであった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬される(4つ左隣はルイジ・ケルビーニの墓)。しかし、彼の意向により心臓だけは、姉によってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められている。